
厭だ。
小説の幕開けはこうだ。
まるで小説全体がジメジメとした不快感を放っているのだと諭すようなその幕開け。
そしてぱっと見た感じでは触るのすら拒絶したくなる黴た装飾をされた表紙。
外見は全てが厭な気分になりそうなほど不快に満ちた本なのだが…。
しかしこの「厭な小説」と題された本にそれほどの厭さを感じるだろうか?
個人的には厭ではなくて嫌である。
単純に物事が嫌いなことにこの「嫌」という感じが使われ、受け入れたくない、この小説ならばページを開くのも厭であるという場合にこの「厭」という漢字が使われる。
しかし個人的には何だか肩透かしを食らったような、期待とは裏腹な印象を受けてしまったのだ。
京極夏彦の小説でも『嗤う伊右衛門』や『姑獲鳥の夏』のような耽美で、ページを開くのも億劫になりそうなじっとりとした不快感を感じるものかと思っていたのだが『厭な小説』はそうではなくて、何だかあっさりとした刹那な不快感を感じるのだ。
これは「厭」ではない。
いやはっきり言って物足りないのだ。
もっともっと不快にさせてくれ! そう思っても何だか中途半端に不快になって終わってしまう。
もしかしたら京極夏彦はそれが狙いなのだろうか?
そうなのだとしたらある意味で成功ではあるが、やっぱり個人的には物足りないのだ。
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