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ほとんど趣味のことを綴るブログ。

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子供の残酷さって純粋すぎるから深くて怖いんだろうな。
だからこそ命や道徳を学ばせなければならないんだろう。
でなければ人を人をも思わない、虫を殺すように眉一つ、息一つ乱さずに殺す悪魔になってしまうのだろう。
ってことは教育ってのは純粋さを抑制するためのものなのか… いやそれは極論だし、詭弁だろうな。
まぁ、それはいいとしても…。


子供のとき、よく生き物を殺した。
虫やカエルなど面白がって遊びながらたくさん殺した。
今考えるととても怖ろしいことをしていたと思い戦慄いたことがある。
少し前に何かの本で読んだのだが、子供の頃は誰もが生き物を殺すのだという。殺すことを通して生死を命を学ぶのだという。
それを読んだときほっとした。
だけどやはり怖い。


「ぼくはお城の王様だ」には純粋すぎるからこそ、人を傷つけ苦しめる子供たちが登場する。

大きな屋敷に父ジョーゼフとその子供エドマンドの二人で暮らすフーパー家族。そこへ住み込みの家政婦ヘレナとその子供チャールズのキングショー家族が居候としてやってくる。
新しくて楽しい暮らしになるとジョーゼフもヘレナも思っていた。
だがエドマンドはキングショー家族のことを忌み嫌う。特にチャールズのことを酷く嫌い、嫌がらせを行なう。

それに耐え切れなくなったチャールズは皆に内緒で家出をする。
しかしエドマンドはチャールズが出て行くことに気づいており着いてきてしまう。
森に入っていったエドマンドとチャールズは道に迷ってしまう。
そこで初めてエドマンドはチャールズに弱みを見せる。
普段は威張り腐って攻撃してくるエドマンドだが、実はただの赤ん坊で口先だけの卑怯者だったことに気づいたチャールズはこれで自分が優位に立てると思う。
そして迷ってから数日後、捜索隊の発見でチャールズとエドマンドは見つかってしまう。
だが発見されるとエドマンドは普段のエドマンドに元通り、ヘレナとジョーゼフにチャールズのせいで怪我をした。チャールズのせいで道に迷ったとすべてをチャールズのせいにする。反論しても無駄だった。
またいつもの生活に元通りだった。

ある日、ヘレナとジョーゼフはエドマンドとフーパーを連れて城の跡地にハイキングに行く。
城は高くそびえチャールズとエドマンドはお互い天辺から辺りを眺めたらどれだけ気持いいだろうと考え城に登り始める。
チャールズはひょいひょいと城の天辺まで登ってしまうがエドマンドは途中で怖くなり動けなくなってしまう。
エドマンドは森のときのようにチャールズに助けてくれと泣きながら懇願する。おもらしさえしてチャールズはいい気味だと思う。
チャールズは今ならエドマンドを殺すことさえ容易にできるのだと考える。
しかしチャールズは根っこの部分では人間的な良心を捨てることはできなかった。チャールズを助けに向かう。
しかし、エドマンドはチャールズが自分を落としにきたと勘違いしてとっさに手を離してしまう。
エドマンドは動かなくなっていた。
チャールズはエドマンドが死んだと思い込む。だが罪悪感も悲しみも感じなかった。逆に今日から嫌なことから解放される。自由になったのだ、と思ってしまう。
だがエドマンドは生きていた。打ち所が良く脚の怪我だけで済んだのだ。
エドマンドはまたヘレナとジョーゼフにチャールズに落とされたと嘘を言う。
チャールズは弁解するが、ヘレナもジョーゼフもチャールズに何も言わなかった。

チャールズはどんどん追い込まれていく。エドマンドもまた怖ろしいことを考え付いてしまった。
そして二人は共に怖ろしい決断をする。



読後、とても信じられなくなった。
子供がここまで残酷になれるのかと。
だが、これが子供なのだろう。
ひたむきで純粋だからこそ邪悪で怖ろしい。
二人の最後の決断はどちらも許されるものではない。
あの後、皆はどうなったのだろう。
暗い影が皆に降りかかり、またバラバラになったかもしれない。もしくは心のどこかには傷は残しても新たな生活を始めたかもしれない。
どちらにせよ普通に生活などできないだろう。

またあの子供は大人になったときどうなるのだろう。
悪魔のような子供になること間違いない。
このまま普通に大人になるなんてことになったらそれこそ怖ろしいことだ。





何だかとても嫌な読書体験をした。(いい意味で)
こういうのをもっと見つけたいな。笑

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厭だ。
小説の幕開けはこうだ。
まるで小説全体がジメジメとした不快感を放っているのだと諭すようなその幕開け。
そしてぱっと見た感じでは触るのすら拒絶したくなる黴た装飾をされた表紙。
外見は全てが厭な気分になりそうなほど不快に満ちた本なのだが…。

しかしこの「厭な小説」と題された本にそれほどの厭さを感じるだろうか?
個人的には厭ではなくて嫌である。
単純に物事が嫌いなことにこの「嫌」という感じが使われ、受け入れたくない、この小説ならばページを開くのも厭であるという場合にこの「厭」という漢字が使われる。
しかし個人的には何だか肩透かしを食らったような、期待とは裏腹な印象を受けてしまったのだ。

京極夏彦の小説でも『嗤う伊右衛門』や『姑獲鳥の夏』のような耽美で、ページを開くのも億劫になりそうなじっとりとした不快感を感じるものかと思っていたのだが『厭な小説』はそうではなくて、何だかあっさりとした刹那な不快感を感じるのだ。
これは「厭」ではない。
いやはっきり言って物足りないのだ。
もっともっと不快にさせてくれ! そう思っても何だか中途半端に不快になって終わってしまう。

もしかしたら京極夏彦はそれが狙いなのだろうか?
そうなのだとしたらある意味で成功ではあるが、やっぱり個人的には物足りないのだ。

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