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THE LIFE BEFORE HER EYES(邦題:ダイアナの選択)
2008年 アメリカ 90分

監督:ヴァディム・パールマン
製作:ヴァディム・パールマン、エイメ・ペロンネ、アンソニー・カタガス
製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キューバン、マーク・バタン
原作:ローラ・カジシュキー『春に葬られた光』
脚本:エミール・スターン
撮影:パヴェル・エデルマン
プロダクションデザイン:マイア・ジェイヴァン
衣装デザイン:ハラ・バーメット
編集:デヴィッド・バクスター
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:ユマ・サーマン、エヴァン・レイチェル・ウッド、エヴァ・アムリ、オスカー・アイザック、ガブリエル・ブレナン、ブレット・カレン、ジャック・ギルピン、モリー・プライス、ナタリー・ポールディング

ダイアナは高校時代、モーリーンといつも一緒だった。2人はプライベートなことまで何でも話せる親友だった。
その日もいつものように始まった。
授業前に化粧を直そうと2人はトイレに入る。
そこで話していると、外が騒がしい。叫び声に…そして銃声。
2人は近づく足音に動けずにいると、トイレにクラスメイトのマイケルがサブマシンガンを担いで入ってくる。
「どちらを殺すか選べ」
マイケルはダイアナとモーリーンにそう言うとサブマシンガンを構えた。
モーリーンは「私を殺して…」と言う。
だが、ダイアナはモーリーンのように自分を殺してとは言えなかった。
果たして、ダイアナはどういった選択をしたのか…。


解釈がとても難しい映画だった。
この映画はこういうことを伝えたいのだ! という断定はこの映画においてすることはできないだろう。

映画は高校時代のダイアナと大人になったダイアナ(?)の視点で語られる。
一面的にはダイアナの代わりにモーリーンが死んでダイアナは過去の選択を悔いているように見える。
だが、ラストで語られる事実はそれとはまったく違っていた。

ラストには自分の中で2通りの解釈ができた。
1つ目は映画の大部分で描かれていくように殺されたのはモーリーンでダイアナは当時の選択を悔いている。
子供ができたが、その子供は実は事件のショックによる妄想の産物であったということ。
ダイアナの選択は極限状態では決して間違った選択ではないのだが、それでも当事者には大きな後悔を残してしまった。
選択をしなかったことへの後悔と苦痛。

2つ目はラストまでに描かれていく描写が実はダイアナの妄想であったという解釈。
人は死ぬ間際に走馬灯のように過去の思い出をフラッシュバックさせると言われているが、それが過去に見聞きしたまったく関係のない点(高校時代、町で見かけた男が妄想の中では夫になっている。堕ろした子供につけた名前が妄想の中では実際の子供の名前になっているなど)が憧れていた未来への想いという線になって描かれていたのではないか。

街から出て新しい世界で生きていくことを願っていたダイアナ。まだまだ未来があるダイアナに降りかかった理不尽な死。
ラストで描かれるダイアナの死は自分の後悔や両親、憧れなどをこういう現実であったならばという幻想なのではないだろうか。


恐らく解釈としてしっくりくるのは2つ目の解釈だろう。

だが、個々のセリフや小道具なんかにはまだまだわからないところが多い。
例えば、映画全編を通して『水』が大きなキーワードとなっていること。しかし、その『水』が何を象徴としているのかは納得のいく答えが出せていない。

またダイアナが高校時代、物理の教師に言われた言葉。
・心臓が人間の筋肉で最も強い筋肉である。
・脳には銀河の星よりもずっと多くの細胞がある。
・肉体は72%が水分だ。
この言葉も大きなキーワードだろう。またここでも『水』という言葉が出てきている。
 
納得のいく答えを得るにはあと何度か観なければいけないだろう。
だが、観るたびに新たな疑問、そして答えも得られそうだ。
悲しくてとても切ない映画だが、それだけではない。
もっと大きなものがある映画だと感じた。


90点/100点

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「東京ゴッドファーザーズ」
2003年 日本 90分

監督:今敏
演出:古屋勝悟
プロデューサー:小林信一、滝山雅夫
制作プロデューサー:豊田智紀
企画:丸山正雄
原作:今敏
脚本:今敏、信本敬子
キャラクターデザイン:今敏、小西賢一
作画監督:小西賢一
美術監督:池信孝
色彩設計:橋本賢
撮影監督:須貝克俊
音楽:鈴木慶一
音響監督:三間雅文

声の出演:江守徹、梅垣義明、岡本綾、飯塚昭三、加藤精三、石丸博也、槐柳二、屋良有作、寺瀬今日子、大塚明夫、小山力也、こおろぎさとみ、柴田理恵、矢原加奈子、犬山犬子、山寺宏一


クリスマスイヴの夜、オカマで母親になりたい願望を持つ”おっさん”のハナちゃんはゴミ捨て場で捨てられた赤ん坊を見つける。
「奇跡だわ!」
ハナは神様からのプレゼントだと信じ、家へと連れて行く。

だが、着いた先はダンボールハウス。
ハナは社会から脱落したホームレスだったのだ。
ハナちゃんと共に暮らしているのは訳ありの中年親父ギンちゃんと家出してホームレス生活をすることとなる女子高生のミユキ。
「きよしこの夜だからきよ子」
ハナちゃんは早々に名前をつけて育てる気満々。
だが、ホームレスに子育てなんてできるはずない。
「警察へ行け!」
ギンちゃんは叫ぶ。
だが、ギンちゃんのその言葉にも聞く耳を持たない。
「クリスマスイヴの今日だけ」
ハナのその言葉に渋々了解するギンちゃんだが…。

次の日、ハナちゃんは赤ん坊の母親を自分で見つけると言い出し、ハナちゃんとギンちゃんとミユキの3人は赤ん坊の母親を見つけるために少ない手がかりを元に母親の行方を捜す。
次々と事件に巻き込まれていく3人だが、奇跡のような1日の幕開けでもあった。


今敏監督作品でこんなにもドラマ性の強いシンプルで、かつ厚くて深いストーリーの作品を初めて観た気がする。
いや、他の作品のストーリーも十分に面白くて素晴らしいのだが、本作はストーリーという点では今敏監督作品の中でも一線を画していると感じる。

起承転結のはっきりしたストーリー展開で、オープニングからクライマックス、ラストに至るまで観ているこちら側を惹きつけたまま離さない、いや一層惹きつける。
そしてこの愛らしいホームレス3人組の一日が終わったときにはこの映画の素晴らしさとスゴい映画を観てしまったという衝撃に鳥肌がたった。
隙がまったくないのだ。
赤ん坊を取り巻くストーリーにホームレス3人組、各々が持つドラマ。
誰もが持つであろう苦難や葛藤、切れてしまった糸が奇跡によって再び糸を結んでいく。
そんなふうにして紡がれていくストーリーは多くのものを残してくれた。

映画を観る意味さえも再確認させてくれた。

それくらい衝撃的な作品であった。
アニメという括りを取っ払ったとしても一石を投じた作品には違いない。


「パプリカ」
2006年 日本 90分

監督:今敏
アニメーション制作:マッドハウス
プロデューサー:丸田順悟、滝山雅夫
制作プロデューサー:豊田智紀
企画:丸山正雄
原作:筒井康隆
脚本:水上清資、今敏
キャラクターデザイン:安藤雅司
作画監督:安藤雅司
美術監督:池信孝
色彩設計:橋本賢
撮影監督:加藤道哉
編集:瀬山武司
音楽:平沢進
音響監督:三間雅文

声の出演:林原めぐみ、古谷徹、江守徹、堀勝之祐、大塚明夫、山寺宏一、田中秀幸、こおろぎさとみ、阪口大助、岩田光央、愛河里花子、太田真一郎、ふくまつ進紗、川瀬晶子、泉久実子、勝杏里、宮下栄治、三戸耕三、筒井康隆

筒井康隆のSF小説を今敏監督が映画化した「パプリカ」
原作は未読なのだが映画を観たら読んでみたくなる。
それだけストーリーがスゴいのだ。
本当にこんなストーリーをどうやって考えたのだろう。

だが映画でスゴいのは何よりも映像とそのセンス。
特にパレードのシーンには驚く。
本を読んでも想像できないであろう、魑魅魍魎、百鬼夜行なその夢世界には戦慄した。
とても綺麗で素晴らしい映像なのだが、同時にとても怖いのだ。

そしてBGMには平沢進のくらくらするほど強烈な曲。
もう映像とこのBGMで世界観は完全に作られている。
なのに、そんな世界で語られる意味不明だが妙に惹かれるセリフ。

何なんだろう。本当に夢を見ているのではないだろうか。
そんな錯覚にさえ陥る。

とにかくスゴい映画だった。
映画で感じる夢体験。一種のトリップだった。


「神様のパズル」
機本伸司 著

宇宙は作れるのか? 
それは人間が神の領域に触れることだ。怖ろしい所業のように思える。
だが、そこにはロマンもあるんだよね。

「神様のパズル」はそんな「宇宙は作れるか?」という問題をテーマに進展していく青春ドラマだ。

物理学なんてまったくわからないのだが、それでもやはり惹かれてしまうのは宇宙がとても身近な存在だからかもしれない。
夜になって空を見上げれば数え切れないほどの星があり、それを黒いカーテンが覆うように広がっている。
宇宙はどうなっているのだろうか? どうやってできたのだろうか?
こういう問いは誰もが感じるとても純粋な問いなのだろう。

本作で引き合いに出される物理学の専門的な言葉はまったくわからなくてもどかしかったのだが、でも本作を読めば物理学を勉強したい! という知欲が湧いてくるはずだ。
そのくらい魅力的な世界が広がっているのだから。

ただ残念なのは主人公である綿貫基一とヒロインである穂瑞沙羅華以外に7人ほどの登場人物が出てくるのだが、必要だと思える人物が3人ほどしかいない。それ以外は必要と言えるほどでもなく、この場面でこのセリフを言うためだけにいる人物だと思えてしまうのだ。そのため人物に奥行きを感じないのである。
それが唯一残念な点だった。

それ以外ではテーマもアイデアも面白く、青春小説らしい作品で十分に楽しめた。

しかし、主人公である綿貫基一の扱いには酷いと感じてしまう。ヒロインである穂瑞沙羅華もかなり酷い目にあっているのだが、最期まで報われない綿貫基一。
なぜ、ああも酷い目に遭わなければいけないのか。
読後、爽快さ以上に悲しさと切なさが勝ったのはなぜだろう…。



虎よ、虎よ!
アルフレッド・ベスター 著

とんでもない作品を読んでしまった。
「虎よ、虎よ!」を読み終えたとき、純粋にそう感じた。
1人の男の復讐劇であると同時に壮大なサーガ作品を読んだような、そんな印象を受けたからだ。

ストーリーもさることながら、さまざまなアイデアの数々が素晴らしい。
このアイデアだけで1つの作品が書けるじゃないかと言えるほど面白いアイデアの数々を出し惜しみすることなく使っている。
それを感じるのも楽しければ、深く考えてみるのも面白い。

また、タイポグラフィによるサイケデリックな文章も面白い。
サイケデリックな文章体験とはまさにこのことではないだろうか。
文章による麻薬。大仰かもしれないがそういっても過言ではないと思う。

そのくらい衝撃的な読書体験だった。

次は同じアルフレッド・ベスターの「ゴーレム100」を読もうと思っている。
こちらは「虎よ、虎よ!」以上に期待している作品なため楽しみだ。

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