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ほとんど趣味のことを綴るブログ。

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「BALLAD 名もなき恋のうた」
監督:山崎貴
製作:上松道夫、阿部秀司、島谷能成、飯島三智、島本雄二、永井秀之、本間憲、加藤良雄、諸角裕、亀井修、島村達雄、水野文英、吉田鏡
プロデューサー:安藤親広、松井俊之
原案:原恵一
脚本:山崎貴
撮影:柴崎幸三
編集:宮島竜治
音楽:佐藤直紀
助監督:山本透

出演:草なぎ剛、新垣結衣、大沢たかお、夏川結衣、筒井道隆、武井証、吹越満、斉藤由貴、吉武怜朗、波岡一喜、菅田俊、織本順吉、油井昌由樹、綾田俊樹、矢柴俊博、飯田基祐、香川京子、小澤征悦、中村敦夫

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」が面白かったのでリメイクである「BALLAD 名もなき恋のうた」をかなり構えて観た。
はっきり言えば、この程度かという印象。

と、言うのも「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」では一番大きな主題である『死』というテーマがある。
ギャグを散りばめた演出で面白おかしく描いていても、子供にとっての『死』とは何なのか。争いごとで何故、人が死ななければいけないのか。そういったテーマが「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」では大部分を占めていた。
そこに井尻又兵衛由俊と春日廉という武士と姫の恋という別のテーマを与えられることで、登場人物に深みを与えラストのシーンで大きな主題である『死』というテーマをより深いものにしているのだ。

それを「BALLAD 名もなき恋のうた」では恋模様に主軸をおいてしまったために真一が感じる人の死というテーマが薄れてしまった。
また、真一が井尻又兵衛の死を体験するシーンでは、どこか違和感を感じた。
井尻又兵衛の死を体験する真一がどこか心の奥で不思議とは思っていないような、そんな何かしこりのようなものを感じた。
それは現代社会が死を身近に感じているからなのだろうか、単純に監督の演出力によるのか、わからないが…。

それ以外は余りにもスタンダードすぎる映画。
ステレオタイプな演出に脚本、ひねりも何もなくて、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」では自然な演出も、「BALLAD 名もなき恋のうた」では泣かせようとするクドい演出に見えてしまった。

山崎貴監督はエンターテイメント映画の監督としてはとても力量があると思う。
見せるとこでは大きく見せるし。
だが、この映画だけはやはりいただけないなぁ。

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「知的複眼思考法」
苅谷剛彦 著

例えば学生時代、講師が物事を違った見方をしていることに憧れたことはないだろうか? そういった経験でなくてもいい。読んだ書物の著者が考えつきそうで考えつかなかった側面から物事を眺めていることに驚いたことはないだろうか。
自分はそんなことばかりだ。

「知的複眼思考法」
そう題されたこの本は単眼思考、つまり一面的な思考から複眼思考、多面的に物事を見て思考する方法を教える本だ。

多面的に物事を見たいと考える人は多いはずだ。
学問もそうだし、趣味でも必要になる場面はあるだろう。他にも社会情勢や政治を見るのには確実に必要だ。
そんな複眼思考を身につけるにはどうしたらいいのか?
自分自身で考えて見につけるなんてことは難しい。
それなりの学習が必要になるし、短い時間で身につけるなんてことは無理な話だろう。
ならば、どうしたらいいのか。
今までの学習法や思考法を全部一新して新たな思考法を身につけなければいけない。
勿論、今までの思考法でこれは使えるかもしれないというのは残しておくべきだ。それとは別にこれは使えない。本書の中でこれは使えるかもしれない。そういう思考法を積極的に使うべきだ。

本書ではそのノウハウやヒントを教えてくれる。

思考法ってものは学生時代に授業で学ぶことだったりするので、複眼思考を自分のものにするのは運が大きかったりするのではないだろうか。
よっぽどいい先生や教授なんかに出会わなければ単眼思考のままなのだろう。
ならば、やはり自分でどうにかするしかない。
この複眼思考はどうしてでも手に入れなければいけないものだと思うのだ。


CORPSE BRIDE
TIM BURTON'S CORPSE BRIDE
邦題:ティム・バートンのコープスブライド
2005年 イギリス 77分

監督:ティム・バートン、マイク・ジョンソン
製作:アリソン・アベイト、ティム・バートン
製作総指揮:ジェフリー・オーバック、ジョー・ランフト
脚本:パメラ・ペトラー、キャロライン・トンプソン、ジョン・オーガスト
撮影:ピート・コザチク
編集:クリス・レベンゾン、ジョナサン・ルーカス
音楽:ダニー・エルフマン

声の出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン、トレイシー・ウルマン、ポール・ホワイトハウス、アルバート・フィニー、ジョアンナ・ラムレイ、リチャード・E・グラント、クリストファー・リー、マイケル・ガフ、ジェーン・ホロックス、ディープ・ロイ、ダニー・エルフマン


ティム・バートンってやっぱり世界観だけは惹かれるんだけど、ストーリー自体はそれほど良くないように思える。
「コープスブライド」も世界観は好きなのだ。
死者の世界では首だけの男や剣が刺さっている男、骸骨などが楽しく暮らしている。逆に生者の世界は暗くて陰気臭くて楽しみなんて何もないように思える。
そんな世界の対比は面白い。

そして生者の世界に暮らすひ弱で鬱っぽそうなビクターと死者の世界で暮らす半分腐乱した花嫁というのも面白い。

だが、ストーリーはというとはっきり言って普通なのだ。
これといった見所もなく終わる。
面白そうなアイデアであるのにここまでありきたりなストーリーで終わってしまうと何だか、とても勿体無い気がしてしまう。

ティム・バートンはやっぱり観賞前の予告編によるインパクトだけなのかもしれない。


「The Road(ザ・ロード)」
コーマック・マッカーシー著

核戦争か何かで崩壊した地球、文明は滅び、法や秩序もなくなった。その日、生き延びるだけの食料すら見つからない。
そんな世界で何とか生き残った数少ない人々は人間らしさを捨てて無秩序な生活を送るようになる。
そんな世界でひたすら南に向かって歩き続ける父と子。
父は子を守るためならば心が鬼になっても構わないと思っている。それが人を殺すことになろうとも…。
息子はこんな世界に生まれていながらも純粋な心を持つ少年だ。
二人は南に向かえば今よりも暖かい場所で暮らせるかもしれない。そんな思いから旅を続ける。


ストーリーはとても淡々と進んでいき淡々と終わる。
しかし、とても重厚なストーリーであるのだ。
バックグラウンドはSFであるが、これは親と子のストーリーだ。SFという設定はあくまでも設定で親子のストーリーを映えさせるためであるとわかる。
現実の世界ではなくてSFという設定だったからこそ、人間の本質や親と子の関係、親の守りたいもの、子の純粋さが際立って見えてくるのだ。

そんな世界では娯楽も何もなくて毎日、わずかな食べ物を食べてひたすら南に歩くだけ。それなのにも関わらず2人の会話がとても秀逸なのだ。
現代が舞台ならば「学校はどうだった」とか「今日は何していたんだ」なんて会話が想像できる。
だが、毎日一緒に歩き続けるだけの生活ではそんな会話すらない。そんな2人には、どんな夢を見たくらいが精々なのだ。しかし、それでも2人の会話には親子の繋がりがあることが一目でわかる。
決して口数が多いセリフが出てくるわけではない。だが、芯が通っている人間であることがよくわかるのだ。この人間たちは作られた人間たちではなくて心があって血が通っている人間だ。そんな印象を受ける。

終末世界を描いた映画や本、漫画はたくさんある。自分も数多く見てきた。
無秩序で混沌とした世界。だが、人間たちは何人か生き残っており、そんな人間たちはコミューンのようなものを作り生活している。
そんな世界が簡単に想像できるが、実際は光が黒雲によって覆われた世界のように夢も希望もなくて、ただ食べるためだけに歩き続ける。
人間らしさも捨てて生き残るためならば人間の肉さえ食べる。
そんな世界なのかもしれない。

最後まで人間としての尊厳を捨てないこの親と子には人間らしさとは何なのだろうかと考えさせられた。



「ひゃくはち」

監督:森義隆
プロデューサー:木滝和幸
原作:早見和真
脚本:森義隆
撮影:上野彰吾

出演:斎藤嘉樹、中村蒼、市川由衣、高良健吾、北条隆博、桐谷健太、三津谷葉子、有末麻祐子、橋本一郎、太賀、小松政夫、二階堂智、光石研、竹内力

人間には108つの煩悩があるのだという。除夜の鐘で108つの鐘を叩くのは、その煩悩を1つ1つ叩いて清めていくらしい。
そして、野球で使われる硬式球の縫い後も108つあるようだ。

「ひゃくはち」は煩悩に塗れた高校球児がレギュラーになるために奮闘するというストーリーである。
甲子園でも上位に食い込む超名門高校のくせに女にタバコ、酒と高校球児どころか高校生としてもあるまじき行為を平気で行なっている。(昔からタバコも酒もする高校生はいるだろうが、それでも一応あるまじき行為である。)

やはり高校生がタバコを吸うという描写は問題視されているようだ。
監督からしてみたらプロにスカウトされるような有名球児たちもタバコや酒をするような高校生と変わりはない。実際そういう問題が起こっているのだから、それをあるがままに描きたかったのではないのかな。

それを抜かしたとしても、やはりこの映画で描かれる姿は高校球児の姿とは違った。
つい最近、夏の甲子園大会では沖縄、興南高校が優勝したが、テレビで見る高校球児の姿はそこにバックグラウンドが存在していないとはいっても、その身体に顔つきからも野球に高校生活を賭けてきた一所懸命さが伝わってくる。
しかし本作ではバックグラウンドが描かれているにも関わらず、高校球児らしさを感じないのだ。
強豪高校という設定も多少のショットと言葉でしか語られない。
そんな設定で描かれる主人公2人の描写にはやはり違和感しか感じない。
今まで練習メニューはこなしているものの、楽にこなす方法を見つけたのではないか? というように見え、ポジションが空いているときにだけ頑張る。そんなふうにしか見えない。
後半で2人は1つのポジションを狙い、それまでの友情が一転して争うかたちとなるが、頑張っていたのはそこだけなのである。
それまで頑張ってきた過程が面白いくらい見えないのだ。

そんな高校球児の姿も一面的には面白いのだが、甲子園に向けてレギュラー争いをする高校球児の姿としてはまったく心は動かなかった。

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